「平凡な日々の大切さ」 Y.T様 (横浜市泉区)
平穏な日々の中、ある日突然、わが家の悲劇が起こりました。忘れもしない、平成十五年七月十八日主人は胃癌の告知を受けました。
入院中、一枚のメモを渡されました。そこには「最愛なる、お母さんへ。私は癌と戦い勝利することを誓います。」と書かれていました。手術前は他の臓器への転移はありませんでしたが、胃の全摘が決まりました。先生から「小腸が徐々に胃の役目をしますから、一年もすれば、お酒も少しは飲めるようになります。」
八月二十二日 手術
だが、その話しは一変しました。手術後、先生からの最初の一言は「残念ですが」で、はじまった。胃癌は、最も質の悪い進行性のスキルス癌でした。谷底から突き落とされた思いと、血の気がひいていくのを感じました。主人に何て言えば・・・。
「悪い所、全部取ったんだよなー」「うん」その後の言葉は言えず、結局これ以上の告知は出来ませんでした。
私と娘は「パパを死なせてなるものか」癌との戦いを始めました。丸山ワクチン・アガリクス・フコイダン・野菜スープ。娘は数十冊からの癌の本とインターネットで勉強を始めました。私たちは仕事をしていましたが、職場の方々の協力もあり、看護に集中することができました。いつの間にか、無言の連携プレーができ、娘の休日が、私の出勤日でした。主人を絶対一人にさせないとの思いが強かったからです。主人と私は十六才という年の差のある夫妻でした。健康にはとても自信があり、「俺は九十才まで生きるぞ」と言っていたのに・・・。
手術から3ヶ月半、癌細胞は腎臓を圧迫、急遽腎臓へのカティーテルの手術が行われました。十二月六日、その日から常に管の付いた袋を持ち歩く不自由な生活が始まりました。とてもつらかったと思います。でもそのつらさを見せず、泣きごとひとつ言わず、常に生きることに前向きで、一生懸命でした。でも、その反面、自分の死を覚悟していたのでしょうか。娘に「お母さんを頼むな。お母さんを頼むな。」時には「人間の寿命って決まっているんだよなー」この頃は余命一ヵ月と言われました。でも信じなかった。信じたくなかった。
翌年三月八日、四回目の入院、体力もだいぶ衰え、当初あった体重より二十キロ以上減っていました。先生から「モルヒネを使います。」くる時が来てしまった。とめどなく涙があふれ、泣き顔を見せまいと必死でした。主人のそばをかたときも離れまいと、その日から、私と娘は病院へ泊り込みました。やがて、やってくる主人の死を覚悟しなければ・・・。
私は「ゆきげ」の電話をメモ帳に、記入していました。他の互助会には入っていましたが、あえて「ゆきげ」なら安心しておまかせできると思ったからです。
三月二十九日、私の誕生日でした。その時はすでに危篤状態でした。私の誕生日と主人の命日が一緒になっても、おかしくなかった。でも主人は誕生日を悲しい日にさせたくなかったのでしょう。満開の桜の花が散る翌朝、三月三十日、静かに息をひきとりました。
主人の大好きなお花をとり入れ、色とりどりの洋花の祭壇で飾りました。遺影はあえて笑顔の写真を選びました。
悲しみの中、何もできない私たちに代わり、きめ細やかな、そして適切なアドバイスをいただき、安心して主人を送ることができました。
私は今、多くの人たちに助けていただき、仕事を続けることができました。仕事での忙しさの中、悲しみを徐々にいやすことができます。
「行ってきます」「気をつけて行ってこいよ」
主人の声が聞こえてきます。あたり前の日常の大切さを痛感すると共に、いつも私と娘を暖かい愛情でささえてくれました。人一倍めんどうみのいい、やさしい人でした。
形としての命はないけれど、いつまでも心の魂は一緒です。
いつの日か、天国で一緒になりましょう。その日まで、さようなら。本当にありがとう。
今も心にひとつの迷いがあります。それは告知の難しさです。
癌告知は、当り前のように言われています。しかし癌の進行度により、生きようとする力をなくし、すべてを絶望させることになってしまうのでは、一方では残された時間をどう過ごしたいか、考えることもできるでしょう。主人はどう思っていたのでしょう。
「ごめんね、本当のことが言えなくて」
今回、雪消集を読んで、大切な人との別れのつらさ、私と同じ思いをしている人が、悲しみを乗り越えながらがんばっている。どんなに励まされたことでしょう。
私も同じ思いを書き残して、少しでも共感していただけたらと思い筆をとりました。
「ゆきげ」の方々には大変お世話になりました。ありがとうございました。
